ume_boshiの          ブログ

人生の半ば、ふとした迷いから転職をしてしまった元看護師のぼやきです。

もうすぐ8月が終わります。

8月は、色々あったせいでとても長かったように感じました。

なんだか、とても疲れた夏でした。

まだ夏の暑さは続いているけど.....

 

あと10年と言っていたら、その「あと10年」に突入しました。

同じ仕事を、毎月・毎年繰り返している様に思えていたけれど

少しずつ少しずつ、その繰り返しが変化していってます。

来年は、末っ子の娘も社会人になるから、あとは65歳まで

なんとか仕事を続けていって、両親を見送って

子供達の結婚式が出来れば、それで私の責任は果たせたことになるのか。

墓も、もう少し近いところへ移せたらと思っているんだけど。

 

嫁さんと旅行行きたいな。

最初は、広島・長崎・鹿児島辺りを巡ってみたい。

尾道のおばさんの家、もう見つけられないだろうけど。

写真が1枚残っているだけだから。

戦艦大和ミュージアムも見てみたい、旧日本軍の知覧航空基地へも行ってみたい。

知覧では、涙が止まらなくなる様な気がする。

 

嫁さんに、青森のねぶた祭りも見せたい。

札幌の街も見せたい。

客船に乗って船旅もさせてやりたい。

 

行けたら、沖縄も行きたい。私は、行ったこと無いから。

 

あっちこっちぶらぶら旅したいけど・・・行き当たりばったりの旅なんて

上手く出来ないだろうな。

ちゃんと明日の泊まるところとか決めてある旅しかしたこと無いし。

でも、なんか自由な感じがして憧れるものはあるかな。

 

そんなこんな出来たら、長男の子供の面倒見ていたいかな。

私の祖父・祖母達がそうしたように、いつも家に帰れば誰かいるような

そんな家に出来たら、孫達も良い子になるんじゃ無いのかなと。

 

あとは、大病をせずに嫁さんより少しだけ先に逝けたら、それでいいかな。

先に逝って、待っていたいから。

もう、やだって言われるかも知れないけど.......

 

あ・・・私は地獄に落とされちゃうのかな(>_<)

 

お墓について思う

私がたまに、さぼりに使う公園がある。

別に自分で会社をやっているのだから、さぼりというのも変なんだが。

場所は、山の上にある墓地の近くである。

墓地の駐車場から、少し下へ降りていくとこぢんまりとした公園がある。

昨日は、公園でヘリを飛ばした後、少し墓地の中を歩いてみた。

色々な形の墓地があり、ふとその中に巨大な場所を占有する墓標が

いくつか存在することに気づいた。

他の墓の10~20基分はあろうかという広いところに大きな墓標が建てられていた。

見れば、そのうちの一つは見覚えのある某商家の墓だった。

日本人が石の墓を建てるという風習自体、いつ頃から始まったモノなのか。

紀元700年頃から、日本では遺体を荼毘に付して遺骨を埋葬するという習慣が

広まっていったらしいが、弥生時代からそれまでの一般人の埋葬は

どのようにされていたのだろうと思う。

権力者達が墳墓と呼ばれる巨大な墓を築いたことは、学校で習ったのだが

一般の人々も、弔いという形が存在して集落の特定の場所に埋葬されていたという

記述を見つける程度だった。

 

どうしてこんなことを書いたかというと、死んでからもなお

財力と権力を誇示するように、大きな墓標を建てることがなにか滑稽に思えたからである。

死してしまえば、どんな人間も骨壺2つに納められてしまう。

その上で、生前の財力が云々というのは、もはや生きて残されたものの見栄でしか無いような、そんな気がした。

戒名というものも然り。

死者につける名前も、ランクがあるらしいが・・・

それは、なんなんだろうかと。

誰がどうやって決めたものなのだろうかと。

私が年を取ったせいなのか、要らぬ事が気になって仕方が無い。

人間として生まれ落ちて、座って半畳、寝て一畳。

少しばかりの贅沢をしたいがためにあくせくと働き、小さな住まいを手に入れて

喜々として喜んでいる。

人として満足していられれば、それで十分なのである。

人には器というものがあることは、十分に自覚しているから。

しかし、死んで逝った者達にもそんな差違があるのだろうかと

様々な墓碑を見ていて、ふと考えてしまっただけのことである。

所詮、現世を生きている者達の見栄に過ぎないような気がする。

そう言いながら、両親が逝ったときには

少しでも立派な墓標をと考えてしまう、浅はかな自分なのかも知れない。

そう思うと、やはり生きているものの見栄だな。

 

 

我が家のお盆も過ぎました

義父母の墓のある東山へ行き

祖父母の墓のある国見岳の上のお寺へ行ってお墓参りをしてきました。

墓標というのものは、亡くなった親族を偲ぶためのものであり

死者の眠るための場所と思っているのだけれど

必ずしも私達のやっている形式が全てではなく、散骨や総墓への埋葬という

形態を取ることも少なくは無い様子。

Mさんの息子が、そのようなことを言っていたときに

「墓くらい建ててやれよ」と思ってしまった自分がいたけれど

日本の墓という形式も所詮は人間が決めたもので、生きている人間の

勝手な思い込みであると言っても、間違いでは無いだろう。

死んだら存在も意識もなにも無くなるのだから。

あの世などというものがあればというのは、生きている者の心の慰めであろうし。

輪廻転生という考えは、幼い頃に祖母が話していたことから学んだものだし

さしたる学も無かったはずの祖母が、どこでその話を聞いたのかは

今となっては知る術も無いことではあるけれど、輪廻転生という考えは

チベット密教に発するものらしい。

人は死ぬと、ミミズから始まって沢山の生き物に生まれ変わって

ようやく人間に生まれてくることが出来たのだから、自分の命を粗末にしてはいけないと。

飯粒を粗末にしてはいけない。一粒の米には仏様が三体入っていらっしゃる。

という主題のおとぎ話を、何度も何度も聞かされたっけか。

ゆっくりと、実にゆっくりと流れていた自分の幼少期だったように思う。

なんにもなかった.............本当になんにもなかったんだけれど

とても恵まれていたように思う。

なんにもない、どこへも連れて行ってもらえない夏休みばかりだったように思うけれど

扇風機しか無くて、暑い暑いうだるような部屋の中で汗を流してゴロゴロしてた。

友達とプールへ行くのが、とても楽しかった。

1回30円くらいだったかな。

 

帰ると、いつも家には婆ちゃんがいてくれた。

優しかったな婆ちゃん。

父親母親よりも、爺さん婆さんとの思い出が多い様に思う。

無口で、いつもなんにも言わず、狭い小屋の中で黙々と桶をつくっていた。

大小様々な鉋や木槌、指物が並んでいた。

爺さんが死んだ後、父は全て捨ててしまったらしいが。

取っておく場所も無かったのは事実だが、そこには色々と父親の中の気持ちの問題があった様だ。

 

 

 

 

 

 

諸行無常というものですか

Mさん、初めてのお盆が来ました。

奥さんのお店に皆がたむろしていた頃が懐かしい・・・

色んな事でお世話になりすぎて、一つ一つ思い出すのが辛い。

奥さんにも色々ご迷惑掛けていました。

うちの親父まで、店に押しかけて愚痴をこぼしていたことがあったっけ。

 

うちは、全くの馬鹿親子で・・・

自分の父親が死んだときに、あれだけ泣けるだろうかと。

おそらく、私は両親の葬儀の時に涙が出ないのでは無いのかと思う。

でもMさん、貴方の死は、私にはとても堪えるモノでした。

涙云々では諮れないほどの大きな穴が、心に空いたみたいで。

大きすぎて、まだ判らないのかも知れないほどの。

 

今頃になって思いました。

人が死ぬということは、こんなにもあっけないことなのかと。

今まで葬儀には何度も出てきたつもりだったし

人の死には、一般の人達より立ち会ってきたはずだったのに

これほど堪えたというのか、なんとも言えない気持ちになったのは

初めてです。

1日の日中には、元気でいたんだよね。

気持ちはしんどかったんだろうけど、少なくとも死ぬような身体では無かったはず。

看護師が周りにこれだけいて、止めることが出来なかったというか

そばに行くことすら出来ない状態になっていたということが悲しいです。

自分自身情けなかった。

私は、自分のことしか考えていなかったのでしょう。

Mさん、向こう側へ行って楽になれたのでしょうか。

麻雀メンバーと楽しくやっているのでしょうか。

そもそも、向こう側なんてあるのですか。

骨壺に入ったMさんを見ても、実感は湧かないのです。

死んだ後も、寝てるみたいな顔していたんだし。

 

そう言えば、

「うめちゃん、酒飲みに連れてってくれや」

「ばあさんの店でも良いから」って・・・言ってたんだよね。

繁華街を挟んで、家が反対方向だから送っていけないよって・・・

そんな言い訳して断ってたんだ。

「そうか...」って言ったMさん、電話でも判るくらいに残念そうだった・・・

いくらでも連れてってあげられたんだけど、

酒だっていくらでも飲ませてあげられた、

ちゃんと楽しく飲ませてあげられれば、普段はお酒我慢出来たのかも知れないね。

気がつかなかったんだよ・・・今、そうだったかも知れないって思ったんだ。

そういえば、一昨年温泉行った後、しばらく飲まなかったんだよね。

毎年連れてってあげれば良かったのかも知れないですね。

そんな大したことでも無かったのに。

いくらでも、嫁さんに送ってもらえたんだけど、

貴方にお酒飲ませたらいけないって、そんなことばかり考えてしまって。

そんな、コップ1杯も飲めなくなってたなんて知らなかったんです。

楽しいこと、つくってあげないといけなかったんでしょうね。

いつか、長崎へ一緒に行きたかったな。

貴方の明るい顔が、私は大好きでした。

「うめ、心配するな。任せておけ」って、いつも笑っていました。

一度も叱られたことも無ければ、だめだと言われたことも無かった。

私が、結構な無理難題を言い出しても、いつもGOサインを出してくれました。

そのせいか、周りでは私に対して僻む向きもあったようだけれど。

みんなが、8人で2班に分かれてスキーに行きたいといったときも

わしが代わりに頑張って働いてやるからいってこいと・・・

その代わり帰ってきたら頑張って働けよと、そう言って送り出してくれました。

1つの病棟で、一時的にせよ8人が旅行に行くというのは

普通の上司であれば、絶対だめだと言いますね。

私がMさんだったら、難しい顔してしまっていたでしょう。

 

お酒飲んで身体悪くして、勤めていた病院に入院して皆に見送られて逝った方が

貴方にとっては幸せだったんだろうか。

今の私には、まだ判りません。

私がお酒飲ませたせいで、別の問題が起きるようだといけないからと

そんな心配ばかりしていて。

身体を悪くして、入院ということになればそれはそれで良かったのかも知れないけど

警察沙汰とか、飲酒事故とかとなったら、取り返しがつかないことだし。

どうしたら、一番良かったんでしょう。

 

今はただ、申し訳なかったという思いが残っただけ......

Mさん、初盆になりました。

 

お盆休みに突入かな。

今日は、神奈川から姉と甥っ子が帰ってきた。

電車が15時頃駅に着くから

午前中だけ、少し仕事するつもりだったんだけれど

急に工事が入ったりしたから、なんだかんだで14時頃まで動き回ってた。

忙しいと、気持ちが紛れます、余計なことを考えずに頑張れるから。

身体的には少ししんどいけど、気持ちが落ち着かないときは

工事とかで一つのこと考えていられると、余計なことを忘れられて良いかな。

 

余りに暑かったので、気がついたら500mlのペットボトルを6本も買っていた。

水ぶくれだな(>_<)

 

13日から盆休みかぁと思っていたら、去年も13日から休んでいたような気がする。

お盆が、仕事の折り返し点みたいな感じに思える。

ガスの使用量も少なくなって、一番暇な時期というのもあるけれど

お盆すぎから決算に向けての色々な準備も始まるし。

 

考えてみたら、ここまでは、そこそこ上手く人生を組み立ててこれた気がする。

上手く歩いてこれたと言うべきか。

もちろん、私だけの力でなどあるはずも無く、嫁さんとか子供達とか

私に関わってくれた多くの人達のお陰であることは他ならない。

 

趣味か・・・

嫁さんがそばにいてくれることが、一番なんだろうね。

一人でなんかしても楽しくないし。

一人旅なんて、出来ないだろうな。

若い頃に一度だけ秋田まで行ったことがあるけれど、一人で往復は

なんとも言えない感じだったから。

基本的に寂しがりなんだろうね。

研修とか、いつも嫁さんが全部用意してくれていたし

家族旅行も、準備は全部嫁さん任せだったし。

キャンプとかの大物の積み込みというか用意は、自分でしたけど。

 

いろいろ「なんで?」と思ってしまったけど

自分自身がMさんのような心理状態に入り込まないように

今から、あれこれ考えていかないといけないんだろうかね。

もし嫁さんが先にいなくなったら、私も判らないかも知れない。

 

Iさんとか・・・とかって・・・他にいないのか。

Iさんとは、リタイヤしてからもつきあいを続けていたいけど

彼は副部長職だから65歳でリタイヤ出来るかどうか、微妙だろうな。

ガスの同業者なんて、会社を閉じたらもう余りつきあいをしたくはない気がするし。

私も、よく考えてみれば余り交流の広い人間では無いのかな。

リタイヤしてからも、アルバイトで病院の夜勤くらいはしていないと

呆けてしまうんだろうか。

ガス屋としてのアルバイトはしんどいからしたくないな(>_<)

来年の話をすると鬼が笑うというのに、10年先の心配をしている自分がいる。

鬼も呆れてしまうだろうか。

会社を閉じるって、色々大変なんだろうな。

 

 

今日は山の日らしい

けど・・・一日、家から一歩も出ずに、PCのHDDデータレスキューしていた。

なんとかなった模様。

ほとんどエロ動画なんですけどね(^_^;

それも、見もしないで溜めてるだけの。

3TBをシングルパーティションで使ってて大丈夫なのかな。

 

ふと、また思い出してたんだけど、私が退職したのが2000年の春で

Mさんが辞めたのが、3年ほど後だったのかな。

精神病院が2003年に移転しているから、それより前だったんだと思う。

退職してからしばらくして、加賀のサナトリウムにしばらく勤めたり

近所のKB外科で夜勤のアルバイトしたりしてたんだよね。

お金の為もあったのかも知れないけれど、一人で寂しかったんだろうね。

あの頃は、あれこれ勤務中のことを話してくれたっけか。

色々、仕事に関して不満はあったみたいだったけれど・・・。

楽しくは無かったのかな。

そりゃ、あれだけMさんMさん言われて、センターの中心にいた状態から

新参のアルバイトみたいな立場になってしまうと、楽しくは無いだろうね。

でも、そんなに趣味の無い人だったのかな。

いつも皆に囲まれて、皆のために動いてた人だったから

お酒飲んだり、皆で一緒にいるのが趣味みたいなもんだったのかな。

大型のバイク買ったりして、あちこち走りに行ったって話は

まだ勤めてた頃のことだったのだろうか。

あんなに知り合いや友達が沢山いると思ってた人だったのに、

毎日、ワイワイとお祭りみたいになってないと寂しかったのかな。

そんなこと無いよね、ドラ息子の残した借金を10数年かかって

やっと完済するところだったんだし・・・。

あれだけ頑張って明るい道を歩いてきたのに、急に報われない生活になって

どこにもぶつけようが無い気持ちだったんだろうね。

それで、酔うとあちこち電話してくだまいてしまったんだろうし・・・。

それで、余計に寂しい状況をつくってしまっていた。

知らなかったけれど、公立病院や警察にもかなり迷惑を掛けてしまっていたらしい。

どうしてしまっていたのですかMさん。

老いによる寂しさは、誰にでも訪れることで、現役の連中に「つきあえ」と

言われても無理になることが多い。

リタイヤして第2の人生を送るというのは、そんなにしんどいことなのか。

 

もしも、嫁さんが先に逝ってしまったとしたら、確かに寂しいだろうな。

なにか呟いても、返事が返ってこないなんて嫌だよね。

リタイヤして、嫁さんとあちこち旅出来たらと思うけど・・・

それが出来たら、嫁さんより長生きしていたくは無いかな。

その為には、後10年、とりあえず頑張らないと........ね。

 

 

 

 

 

偲ぶ会をしようと・・・

私を入れて4人ほどで、偲ぶ会をしようかなと思う。

Kさんの提案なのだけれど、一昨年の9月にMさんと4人で行ったのを

憶えていて、そう言ってくれた。

一昨年と同じ旅館にしたら、Mさん出てきそうで怖いから

今度は別の旅館にしようと思う。

それまでに、思い出の写真とか焼き増ししないとですね。

涙流して思いで話しても、切りが無いんだろうけど

余りにあっけなく消えてしまったから、なにかしないと。

 

釣りしてきたんだとか、バイクで旅行してきたんだとか・・・

そんな羨ましいほどの引退生活が待っていたはずじゃ無かったのですか。

ずっと万年床で寝たまま酒飲んでテレビはつけっぱなしで・・・。

気持ちが鬱いでしまっていたのでしょうか。

九州へ一度帰ってみても良かったのかも知れないのに。

 

そんな話もこんな話も、あれこれしてみようと思うんだよ。

あの日のメンツに、貴方の代わりに息子さんを加えてね。

場所はどこでも良いんだ・・・

泊まれて食事が出てお風呂があれば。

D君を呼んだ方が良いのかどうか、まだ迷っているんだけど。

病院内の人達が偲ぶ会をしようと思えば、いつでも企画して出来るだろうから。

もし、私を呼んでくれたとしたら喜んで行くつもりだけれど

おそらく、Mさんのことは彼らの中ではもう終わっているんだと思うから

そんな話が出ることは無いんだろう。

 

Mさん、今頃、雲の上でなにしてるんでしょうか。

オリンピックくらい見ていけば良かったのに。

そんな誕生日にこだわらなくても。

来年の命日には、誕生日ケーキを持っていかないといけないじゃないですか。

へんな命日になってしまうよ。

息子さんは、墓を建てないみたいだし仏壇もどうなるやら。

墓たてて欲しいんだけどね、たまに会いに行きたいから。

でも、そこまでは、私には口出せないから。

ひょっとしたら、彼は改装したときに電化にするつもりなのかも知れないから

そしたら、Mさんの家に行くことは、もう無くなるんだろうね。

夜中に酔っ払い電話がかかってくることも無いんだね。

寂しいような、ホッとしたような。

複雑です。

あの家では、色んな事があったから。

楽しいことは沢山あったし、夜中に泣きながらMさんを叩き起こしたときもあったな。

迷惑を沢山掛けたよ。