ume_boshiのブログ

人生の半ば、ふとした迷いから転職をしてしまった元看護師のぼやきです。

お墓について思う

私がたまに、さぼりに使う公園がある。

別に自分で会社をやっているのだから、さぼりというのも変なんだが。

場所は、山の上にある墓地の近くである。

墓地の駐車場から、少し下へ降りていくとこぢんまりとした公園がある。

昨日は、公園でヘリを飛ばした後、少し墓地の中を歩いてみた。

色々な形の墓地があり、ふとその中に巨大な場所を占有する墓標が

いくつか存在することに気づいた。

他の墓の10~20基分はあろうかという広いところに大きな墓標が建てられていた。

見れば、そのうちの一つは見覚えのある某商家の墓だった。

日本人が石の墓を建てるという風習自体、いつ頃から始まったモノなのか。

紀元700年頃から、日本では遺体を荼毘に付して遺骨を埋葬するという習慣が

広まっていったらしいが、弥生時代からそれまでの一般人の埋葬は

どのようにされていたのだろうと思う。

権力者達が墳墓と呼ばれる巨大な墓を築いたことは、学校で習ったのだが

一般の人々も、弔いという形が存在して集落の特定の場所に埋葬されていたという

記述を見つける程度だった。

 

どうしてこんなことを書いたかというと、死んでからもなお

財力と権力を誇示するように、大きな墓標を建てることがなにか滑稽に思えたからである。

死してしまえば、どんな人間も骨壺2つに納められてしまう。

その上で、生前の財力が云々というのは、もはや生きて残されたものの見栄でしか無いような、そんな気がした。

戒名というものも然り。

死者につける名前も、ランクがあるらしいが・・・

それは、なんなんだろうかと。

誰がどうやって決めたものなのだろうかと。

私が年を取ったせいなのか、要らぬ事が気になって仕方が無い。

人間として生まれ落ちて、座って半畳、寝て一畳。

少しばかりの贅沢をしたいがためにあくせくと働き、小さな住まいを手に入れて

喜々として喜んでいる。

人として満足していられれば、それで十分なのである。

人には器というものがあることは、十分に自覚しているから。

しかし、死んで逝った者達にもそんな差違があるのだろうかと

様々な墓碑を見ていて、ふと考えてしまっただけのことである。

所詮、現世を生きている者達の見栄に過ぎないような気がする。

そう言いながら、両親が逝ったときには

少しでも立派な墓標をと考えてしまう、浅はかな自分なのかも知れない。

そう思うと、やはり生きているものの見栄だな。